匂い源探索行動を解発する神経回路・機構 | |||
Neural Mechanisms for Generating Odor-Source Orientatin Behavior | |||
■匂い源探索行動の基本パターン ここでは匂い源探索行動を解発する神経機構として、カイコガでよく調べられているメスの放出する性フェロモンにたいするオスのフェロモン源探索行動に焦点をあて説明していく。基本的にカイコガのオスはメスの放出する性フェロモンの断続的な塊(フィラメント)に遭遇すると二つの異なる性質をもった歩行パターンを順番に示す。すなわち、 1) 匂いを受容している間、匂いが来た方向への直進歩行。 2) 匂いがなくなると、小さいターンから次第に大きくなるジグザグターン を繰り返して回転に移る歩行パターン。(この歩行パターンは一度起こると30秒から数分の間持続する。) そしてこの行動パターンはフェロモンのフィラメントを受容するたびにはじめから同じように繰り返される。したがって、フェロモンのフィラメントを受容する頻度が高いくなるほど−つまりフェロモン源に接近するほど−(1)の直進歩行が繰り返され、フェロモン源に対し直進することになる。一方、フェロモンのフィラメントを受容する頻度が少ない場合−つまりフェロモン源から離れている場合−ジグザグターンや回転が組み合わさった複雑な経路をとりながらフェロモン源を探索することになる。このようにカイコガは空中のフェロモン分布のパターンをうまく利用して、直進とジグザグターン・回転からなる行動を繰り返すことにより、複雑に変化するフェロモン分布の環境下で匂い源の探索を行う(図?)。(この行動パターンはフェロモン以外の一般臭にたいしても行われる。)このシンプルな匂い源探索の行動パターンは定型的なものではあるが、嗅覚以外の感覚、視覚や触角などやカイコガ自身の嗅覚経験されにはカイコガ自身の内部状態などによっても修飾されうる柔軟性を持っている。 フェロモンを含む匂いの情報は嗅覚受容細胞(olfactory receptor neuron: ORN)から触角葉(Antennal lobe: AL)を介して前大脳(protocerebrum: PC)へと伝達し処理される。より詳細にいうと、フェロモンと一般臭ではそれぞれの匂いを受容するORNからALへの投射領域、さらにはALからPCへの伝達経路および投射領域には違いがあるが(脳内のフェロモン情報経路の項参照)、匂い源を探索する行動戦略は共通している。このことはフェロモンと一般臭とで最終的に匂い探索行動パターン生成を指令する神経回路(前運動中枢)が共通していることを意味している。嗅覚受容細胞から前運動中枢に至る経路の違いは、一般臭では複雑な匂い識別や記憶などの過程を介して前運動中枢に情報が伝達されるのに対し、フェロモンでは複雑な匂い識別を必要としないことと、記憶に関連するキノコ体をバイパスして(全てがそうか?)前運動中枢に伝達されるという違いを反映しているためと考えられる。 昆虫の神経節は、頭部、胸部、そして腹部に分散して存在し、胸部神経節には歩行や飛行パターンを作るすべての神経回路が含まれている。歩行や羽ばたきの開始や終了、左右へのターンや回転などの指令する信号は前運動中枢(脳内に存在する)から胸部神経節以下の神経節に下降性介在神経(複数ある)によって伝えられる。(図?) これらの下降性介在神経は、側副葉(lateral accessory lobe: LAL)と呼ばれる脳内の領域で(シナプス)入力を受け取ることが知られている。LALは脳内に左右一対存在する100μm程度の大きさのラグビーボール状の神経叢(しんけいそう:神経線維の集合体)である。また、いくつかの下降性介在神経はLALの下???に位置する前大脳腹部(ventral protocerebrum: VPC, これも左右一対存在する)にも樹状突起を伸ばしており、LALとVPCは一つの機能的ユニット(LAL-VPC unit)を形成している(Kanzaki et al., 1994; Mishima and Kanzaki, 1999; Iwano et al., 2010)。両側のLAL-VPC unitsはbilateral neuron(和名が不明)によって接続しており、双方向に信号をやり取りしており、このLAL-VPC unitsが脳内の前運動中枢と考えられている。このbilateral neuronの多くは抑制性の神経細胞であり、両側のLAL-VPC unitsを相互に抑制している。 一つのLAL-VPC unitはその神経線維の塊り方によって、さらに五つの領域に分けることが可能であり、それぞれlower LAL(lLAL)、upper LAL(uLAL)、outer VPC(oVPC)、inner VPC(iVPC)、anterior inner VPC(aVPC)と呼ばれている。この五領域内(・間)では複雑ではあるが、ある決まった様式で神経細胞により相互に情報をやり取りしている(図?岩野さんの論文のFig 9)(Iwano et al., 2010)。しかし、個々の神経細胞の詳細な結合についてはまだ不明なところがある。 では、このLAL-VPCでどのようにして匂い源探索行動の指令情報が生成されるのだろうか? 上記したように、オスのカイコガはメスの放出する性フェロモンのフィラメントに遭遇するとまず直進し、フィラメントがなくなると小さいターンから次第に大きくなるジグザグターンを繰り返して回転するという行動パターンを示す。この行動パターンの指令情報はLAL-VPC unitsに樹状突起を伸ばしている下降性介在神経により、胸部神経節に伝達される。これら下降性介在神経にはフェロモン刺激に対し、一過性の興奮応答を示すものとフリップフロップ応答−フリップフロップ応答とはフェロモン刺激に対し、神経細胞の状態依存的に興奮しているときにはそれを抑制し、逆もしかりな性質をもった応答で、電子回路の記憶素子であるフリップ・フロップに対応するもの−を示すものがあり、それぞれフェロモン刺激時の直進歩行とジグザグターン・回転歩行の指令情報であると考えられている。このフリップフロップ応答はLAL-VPC units内で生成されると考えられている。 |
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■フリップフロップ応答を生成する側副葉(LAL)神経回路のモデルとシミュレーション | |||
下降性介在神経にLAL-VPC units内で見られるフリップフロップ応答はフェロモン源探索行動におけるジグザグターン・回転を制御していると考えられているが、そもそもこのフリップフロップ応答はどのような神経機構により生成されるかは次のように考えられている。のだろうか? LAL-VPC unitsの神経回路をより正確に理解するためには、LAL-VPC unitsを構成する個々の神経細胞間の接続関係やその接続の強度(シナプス荷重)を明らかにする必要がある。しかし、現時点では計測技術の制限により、実験的にそれを解明することは困難である。昆虫では多くの神経細胞が同定可能である。よって別々の脳で調査された神経細胞でも、それをデータベースに登録し、包括的に神経回路を見ることが可能である。ただし、神経細胞間のシナプス荷重がどの程度なのかを明らかにするのは困難である。 我々はカイコガ神経細胞のデータベースを作成している。このデータベースには1000個以上の神経細胞の詳細な3次元構造とそのフェロモン刺激時の生理応答が登録されている。このデータベースの登録されている、LAL-VPC unitsに存在するニューロンの三次元形態と応答を綿密に分析することにより、以下のフリップフロップ応答を生成する神経回路のモデルを提唱している。この神経回路のモデルによりフリップフロップ応答を生成する神経機構を推測しようと試みている。 モデルはLAL-VPC unit内の五領域のフェロモン刺激時の応答を抽象化して記述し、そのそれぞれとLAL-VPC units内の神経細胞間の結合をデータベースの情報をもとに結合させ、その間のシナプス荷重さまざまに変化させながらフリップフロップ応答を生成する結合およびシナプス荷重を推測する。 さらには、上記で抽象化したLAL-VPC unit内の五領域内の各神経細胞の結合を詳細にモデル化することを目的として、標準化、平均化された脳(標準脳)内の座標系をもとに、データベース内に登録されている神経細胞をマッピングし、各ニューロン間の結合可能性を評価し、このモデルにおいてもシナプス荷重を推測していく。この際、これらの神経回路モデルの振る舞いはすでに実験的に得られているデータをよく再現できるかで、評価している。最終的には、LAL-VPC unitsでフリップフロップを生成するかで評価していくことになろう(嶋ら, 2009)(図 電気学会誌の図5)。 このモデルの振る舞いは、コンピュータを用いて行うことは当然のことであるが、神経細胞間の結合可能性は膨大な量になるため、計算量が膨大になる。そこで、このようなシミュレーションをスーパーコンピュータでにより実行する計画が進められている。 |
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■参考文献
神崎亮平 (2009) ロボットで探る昆虫の脳と匂いの世界-ファーブル昆虫記の謎に挑む- フレグランスジャーナル社 2009年 Kanzaki R, Ikeda A, Shibuya T. (1994) Morphology and physiology of pheromone-triggered flipflopping descending interneurons of the male silkworm moth, Bombyx mori. J Comp Physiol A. 175:1-14. Mishima T, Kanzaki R. (1999) Physiological and morphological characterization of olfactory descending interneurons of the male silkworm moth, Bombyx mori. J Comp Physiol A. 184:143-160. Iwano M, Hill ES, Mori A, Mishima T, Mishima T, Ito K, Kanzaki R. (2010) Neurons associated with the flip-flop activity in the lateral accessory lobe and ventral protocerebrum of the silkworm moth brain. J Comp Neurol. 518(3):366-88. 髙嶋聰・加沢知毅・神崎亮平:昆虫の嗅覚系全脳シミュレーション (2009) 電気学会誌 129(12):808-811. |