匂い識別機構 Odor Discrimination Mechanisms
嗅覚系の神経回路の構造は,昆虫からヒトまで進化的に保存された特徴を多く持っている.昆虫の神経回路は,工学的な応用の面からも,その低コスト,高速な情報処理機構に注目が集まっている.昆虫の嗅覚神経回路の構造と,匂い識別の実現に関して,現在までに明らかにされている知見,提案されている匂い識別アルゴリズムについて概説する.
神経回路
遺伝学的な手法により,嗅覚神経回路の構造,特に回路・神経細胞同士の接続関係に関する研究が進んでいる.同一タイプの匂い受容体を発現する細胞が,嗅覚中枢(哺乳類では嗅球,昆虫では触角葉)の同一の部位(糸球体,Glomeruli)に収斂することが分かっている.この性質は,最初にマウスで,続いてショウジョウバエで明らかにされた[マウス:Mombaerts et al., 1996; ショウジョウバエ,Vosshall et al., 2000].カイコガのフェロモン受容細胞に関しては,入力細胞と,出力細胞の比率が50000:30程度である.こうした収斂構造の機能的利点として,多数の嗅受容細胞が,少数の二次神経細胞に接続することによって,信号の増幅・ロバストな応答性が実現されると考えられている[Bhandawat et al., 2007].
神経機構
匂いのパターン分離
本節では,前述の神経回路の動作を,端的に捉えることを試みる.糸球体は嗅覚中枢の機能単位となっており,糸球体どうしの相互作用に 着目した分析が行われている.
1) 側方抑制
古典的な作業仮説として,側方抑制モデルが挙げられる.近接する糸球体は似た入力を受け,相互に活動を抑制しあうことで,S/Nを向上させ,匂いのチューニングを行っているとするもので,長く支持されてきた[Yokoi et al., 1995].この仮説からは,2次の神経細胞では,1次の神経細胞(レセプター)よりも応答を示す匂いの数が少ない(匂い受容スペクトルが狭い)という予測が立てられ,実際に濃度が比較的薄い条件下では正しいことが分かっている.
2) 興奮性の糸球体間相互作用
ショウジョウバエで,触角葉を介することで匂いスペクトルが拡がるという結果が得られ[Wilson et al., 2004],さらに,興奮性の糸球体間相互作用の存在が示された
[Olsen et al., 2007; Shang et al., 2007].嗅受容細胞のレベルでは,時間的なパターンはほとんどないとされており,現在では,抑制性・興奮性相互作用が共に存在して,2次の神経細胞のレベルで,スペクトルを拡げ,より多様な時間的パターンを生み出すことによって,3次の神経細胞で匂い情報を分離しやすくしている,と解釈されている.追って,興奮性の糸球体間相互作用の存在を強く示唆する結果が得られた[Aungst
et al., 2003; Hayar et al., 2004; Shang et al., 2007; Olsen et al., 2007].
3) 神経細胞間の同期処理
2次の神経細胞のレベルで,早い時間スケール(10-30ミリ秒程度)では,神経細胞の発火が同期して,ネットワーク全体では,脳波として観察される.脳波を基準にして,個々の神経細胞をみると,各周期で決まった位相で発火することが分かっている.この脳波がクロックのように作用し,3次の神経細胞では,周期をまたいだ情報の加算は行われないことが知られている.早い時間スケールの情報処理については,Laurent,
2002に詳しい.こうした匂いに依存した同期的振動現象の存在は,種間の普遍性が議論されていたが[Christensen et al., 2003],最近ガ,ショウジョウバエでその存在が示された[Ito
et al., 2008; Tanaka et al., 2009].
4) 識別時間と精確性
数百ミリ秒以上のオーダーでみた場合,匂い識別に必要な時間について,2次の神経細胞でサンプリング時間を多くとればとるほど,異なる匂いの識別がしやすくなる,という現象がある[Decorrelation;Friedrich and Laurent, 2001; Friedrich et al., 2004]. ただし,ラットの行動レベルで非常に短時間(一回の呼吸)で匂い識別が可能という報告もあり [Uchida et al., 2003],現在も議論されている.早いフェーズでラフな識別を行い,時間があればより精密な識別を行うと考えられる.この経緯はFriedrich, 2006に詳しい.
[前シナプス抑制,匂いの時間・空間情報の表現,同期振動を生成するしくみ等を追加する予定です]
匂いの認識
3次の神経細胞によって,匂いの特定が行われると考えられる.視覚の「おばあちゃん細胞」のように,ある匂いの特定の濃度で,数発発火するようなケニオン細胞が存在する.ケニオン細胞は,発火確率を下げたスパースコーディング方式を採用している[Perez-Orive et al., 2002].発火確率を下げることによって,記憶容量の増大・低エネルギーコストなどの利点がある[Olshausen & Field, 2004].