カイコガ匂い源定位の行動戦略
わたしたちが匂い源を探索するときのことを振り返ると,まず鼻でまわりの匂いをかぎ続け,匂いの濃いと感じられる方向を探そうとする.しかし,このやり方では数メートル先の匂い源を見つけ出すことも難しい.この探索戦略には,実は2つの欠点がある.1つは,匂い受容細胞の疲労を考慮していない点である.何度も同じ匂いで受容細胞を刺激すると,応答が次第に弱まる順応が起こる.受容細胞の閾値が上昇して反応しなくなるのである.2つ目は,空中における匂いの分布状態を考慮していない点である.匂いは空中に濃度勾配にしたがって連続的に分布していると思われがちだが,風が吹く自然環境下では,匂いは空中に不連続的にたくさんの匂いの塊(フィラメントという)となって存在し,時々刻々とその分布状態を変化させている.したがって,匂いの濃度勾配だけを指標にして匂い源を探すのは不可能である.
図.匂いの空気中での分布を煙で視覚化した.
では,昆虫はどのような戦略によって匂い源定位が可能なのか.実は,昆虫は匂いの不連続な分布や,匂い源に近づくほど匂いフィラメント密度が増加する環境情報を巧みに活用し,匂いのフィラメントに遭遇するたびに次のような2つの異なる性質をもった行動パターンを発現させることで匂い源を探索しているのである(下図).
この2つの行動パターンは,匂い刺激を受容するたびにはじめから繰り返される.したがって,匂い源に近づくほどフィラメントの分布する密度が高くなるの で,はじめに現れる反射的な直進が繰り返され,匂い源に対してほぼ直線的に定位することになる.逆に,匂い源から離れるにつれ分布密度は低くなるので,ジ グザグターンや回転が組み合わさった複雑な経路をとりながら匂いを探索することになる.このように昆虫は,空中の匂いの不連続な分布パターンに依存して, 反射的行動とプログラム化された定型的行動パターンのセットとリセットを繰り返すことにより,複雑に変化する匂い環境下で,長距離の匂い源定位に成功して いたのである.匂いが空中に不連続に分布することで,触角での匂い受容も不連続となり,匂い受容細胞の順応を回避することにもなっている.
- 匂い刺激を受容している間,刺激方向に対して直進する反射的行動.
- 匂い刺激のなくなった後に@に続いて発現するプログラム化された行動パターン.小さなターンから次第に大きくなるジグザグターンを繰り返して回転に移る,プログラム化された定型的な行動パターンである.