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クモの糸

クモの分泌する糸は非常に柔らかくかつ強いといわれてきた.このクモの糸の機能を調べることは理学的に興味深いうえ産業利用にも通じるものがある.そこで,ここではクモの糸の力学的側面に光をあててみたい.クモの腹部にある多数の吐糸管は腹にある7個の絹糸腺に連結しており,それぞれが異なるアミノ酸組成を持つタンパク質を分泌する.それらはそれぞれ目的にあった機能を果たしている.

巣を張るクモにおいてよく見られる円網は種々の糸から構成される.すなわち,巣の中心部の密に張られた「こしき」.巣の中心部から外へ放射状に伸びる「縦糸」.渦巻状に張られ,粘着球がほぼ等間隔についている「横糸」.巣を囲んでいる「枠糸」.枠糸と木とをつなぐ「けい留糸」.クモが獲物を捕らえる際や危険に遭遇した際の命綱の役割を果たす「牽引糸」である.ここでは特に力学的性質の興味深い牽引糸と横糸について述べていくことにする.

牽引糸の力学的特性
ジョロウグモの牽引糸はグリシン(約37%),アラニン(約18%),グルタミン酸(約16%)などのアミノ酸残基からなる構造タンパク質である.牽引糸はMaSp1とMaSp2の主に二つのタンパク質から構成されている.MaSp1は準結晶性βシート構造のセグメントとGGXといわれる非結晶性へリックス構造のセグメントと末端部に繰り返しのないセグメントの3種のセグメントから構成される.一方,MaSp2はGPGXXといわれるβターンのらせん構造をとるセグメントと,準結晶性βシート構造のセグメントと,末端部に繰り返しのないセグメントの3種のセグメントから構成される.βターンのらせん構造は牽引糸に弾性的な特性を与え,βシート構造はこの糸に高強度の特性を与える.弾性率を見るとナイロンなどの合成高分子のそれよりもかなり大きい.クモの分泌線内では高濃度の液晶状態になっておりタンパク質分子が長軸方向に平行に並ぶ構造が維持されているところもあり,細い分泌線を通過する際に,圧力によりタンパク質は並び,繊維軸にそって部分的な秩序化が起こると考えられている.

クモの重さを支える牽引糸は非常に細いが,クモがぶら下がっても切れず,空中で生活しているクモの生死を左右する重要な役割を担っている.牽引糸は目視では1本に見えるが電子顕微鏡で観察してみると,円柱状状のフィラメントからなっていることがわかる.クモの糸の力学強度を調べると,小さな力が加えられると牽引糸はバネばかりのように力に比例して伸びるが,限界点を境に比例しなくなり,やがては破断するに至る.張力に比例して伸びる領域の限界点を弾性限界点といい,限界点での張力を弾性限界強度,伸びを弾性限界伸びという.この弾性限界強度はクモの体重の2倍に相当し,このことは2本からなるフィラメントフィラメントのうち,片方がきれても残りの1本でクモを支えることができることを意味している.このように牽引糸は万が一に際しての非常に効率的な命綱になっていることが分かる.

牽引糸が2本のフィラメントからなることは危機管理の観点から非常に重要である.2本のフィラメントのうち,いずれかの1本が危機時に必要な“ゆとり”として働くことになる.そのため牽引糸は最も効率的にクモの重さを支えるシステムをとっていることになる.安全性とエネルギーの観点から,最大の効率性とゆとりをもつ牽引糸によって初めて,クモの俊敏な活動性が保証されていることになる.このようなクモの牽引糸の機能はエレベーター,橋,飛行機,家屋,トンネルなどの構築物や紐などの工業用素材の安全性や危機管理に対して重要な示唆を与えてくれるとなろう.

弾性的な横糸
獲物を捕らえる際,横糸は200%も伸びる弾性的である.横糸はグリシン残基が約45%,プロリン残基が約20%また,グルタミン酸,アスパラギン酸,セリン,リシンなどの解離性側鎖をもったアミノ酸残基からなる.牽引糸に見られる弾性はGPGXXといわれる非結晶性のβターンのらせん構造に起因するが,このβらせん構造は横糸にも見られる.非常に弾性的な横糸には一つの繰り返しセグメントの中に少なくとも43個のGPGXXの連続した構造が見られる.このように横糸の非常に弾性的な性質はセグメント中のβターンのらせん構造の繰り返しに起因すると考えられる.

横糸と縦糸の力学的特性
非常に弾性的な横糸に昆虫が衝突すると横糸の粘着剤によって昆虫の動きが封じられる.横糸は昆虫の運動エネルギーを吸収する性質を持つ.しかし,大きすぎる昆虫が衝突すると横糸が巣の骨格として機能する縦糸とのつなぎ目で切れて,巣全体が壊れないようになっている.このような横糸と縦糸の力学的力学的特性を知ることは獲物を捕らえる際の機能を考えると興味深い.横糸は力が加わると,緩やかに伸び200%以上伸びたところで強度が球に上昇するが,破断強度は比較的小さい.一方,巣の骨格としての縦糸は伸びは小さいが破断強度は非常に大きいので丈夫である.これらの性質により上記の巣全体の特性を示すと考えらる.
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