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フェロモン Pheromone
一般臭とは対照的に、個体から発せられ同種の他個体に特異的な行動もしくは生理的変化を引き起こす情報化学物質を「フェロモン」と呼ぶ(Karlson and Luscher, 1959)。フェロモンは昆虫に誘引する効果によって、性フェロモン警報フェロモン集合フェロモン道しるべフェロモンなどに分類されている。この中で、昆虫の繁殖に欠かせないものが配偶行動を引き起こす性フェロモンである。性フェロモンは、1959年に初めてカイコガ(Bombyx mori)でボンビコール((E,Z)-10,12-hexadecadien-1-ol)の化学構造が決定されて以来(Butenandt et al., 1959)、現在までに、農業害虫を含む1500種以上の昆虫種で化学成分の化学構造が決定され、データベースに登録されている(The PherobaseThe Pherolist, Byers 2002)。同定された性フェロモン成分の化学構造は多様であるが、蛾類の性フェロモン成分は化学構造が種の間で類似している(Byers, 2005)。この類似性は、蛾類の性フェロモンが蛾類に共通な2つの生合成経路で合成されていることに由来すると考えられている(Ando et al., 2004)。すなわち、蛾がde novo合成した脂肪酸を出発物質として生合成する経路(TypeT)と、植物由来のリノール酸リノレン酸を出発物質として生合成する経路(TypeU)、の2つが知られている。前者からはボンビコールのようなアルコールやアルデヒド、アセテートなどが、後者からは直鎖炭化水素が、それぞれ性フェロモン成分として合成される(Ando et al., 2004)。

カイコガの場合

カイコガ成虫は生殖に特化しており、配偶および産卵に関連した行動を除いてほとんど行動を示さない。さらに雄カイコガの行動はフェロモンを感じたときに発現するフェロモン源定位行動に限定されるため、刺激と行動との対応がきわめて明確であり、行動発現のもとにある脳神経系の情報処理機構を解明するための格好のモデル系であるといえる。

多くの蛾類昆虫の雄は雌の放出する性フェロモンを手掛かりとして、雌のもとへ定位する。一般に蛾類の性フェロモンは複数成分から構成されており、種によってそれらの成分の化学構造や成分比が異なる。雄のガは種特異的なフェロモン成分とその成分比を認識することで同種の雌を探し出す。

一方で、カイコガは単一の性フェロモン成分を定位に利用する比較的単純なフェロモン交信系を用いている。カイコガの雌はボンビコール[ (E,Z)-10,12-hexadecadien-1-ol]とボンビカール[ (E,Z)-10,12-hexadecadien-1-al]の2種類のフェロモン成分を放出するが(Kaissling et al., 1978 図1)、雄カイコガはこのうちボンビコールを触角で検出すると直進−ジグザグ−回転からなる定型化された匂い源定位行動を発現し、雌へ定位する(匂い源への定位行動参照)。それに対し、ボンビカールはボンビコールにより解発される行動を抑制する効果が報告されているが(Kaissling et al., 1978)、その生物学的意義はよくわかっていない。雄ガのボンビコールに対する行動発現の感度は非常に高く、わずか170分子のボンビコールを受容により行動が発現すると計算されている(Kaissling, 1987)。

このような雄カイコガのフェロモン源定位行動の発現は定型的と考えられてきたが、近年の研究により、脳の内部状態や経験により修飾を受けることが分かってきた (Gatellier et al., 2004; Gatellier, 2005)。雄カイコガは、概日リズムに応じて雌探索行動の発現感度を変動させ、セロトニン濃度が高い日中にはフェロモンに対する反応性が高く、濃度が低い夜間には反応性が低い (Gatellier et al., 2004)。このことから、セロトニンはカイコガの雌探索行動の発現感度の変化に重要な役割を果たしていると考えられる。また、ボンビコールに対する行動発現の感度は宿主植物の匂いの存在によって上昇することもわかってきている(Namiki et al., 2008)。


                  

    図1.カイコガ性フェロモンの化学構造(A)。雄カイコガのフェロモンに対する反応(B)


参考文献

Kaissling, K.-E. R. H. Wright Lectures on Insect Olfaction, ed. Colbow, K. (Simon Fraser Univ., Burnaby, 1987).

Kaissling, K.-E, Kasang, G., Bestmann, H.J., Stransky, W. and Vostrowsky, O. A new pheromone of the silkworm moth Bombyx mori: sensory pathway and behavioral effect. Naturwissenschaften 65, 382-384 (1978).

Gatellier, L., Nagao, T. and Kanzaki, R. Serotonin modifies the sensitivity of the male silkmoth to pheromone. J. Exp. Biol. 207, 2487-2496 (2004).

Gatellier, L. Neuroethological studies on neuromodulation of the silkmoth brain. The graduate school of Life and Environmental Sciences, the University of Tsukuba. doctor thesis (2005).

Namiki, S., Iwabuchi, S. and Kanzaki, R. Representation of a mixture of pheromone and host plant odor by antennal lobe projection neurons of the silkmoth Bombyx mori. J. Comp. Physiol. A (2008).

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